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三十代のオッサンがネット記事やら日々の事柄について不定期に日記を書くブログです。 

幸福になる権利 が終わっている

幸福になる権利は存在しないから終わっている

 

テレビで再放送だか初回なのかわかない番組で見た一幕から

母子を映し出しており「彼女たちには幸福になる権利がある」みたいなテロップがついてナレーションしていた

 

別に彼女たちが不幸になーれとか、幸福になる権利がないとか言いたいわけではありません(そこまで思うなら、むしろ私が終わっているとタイトリングすべきレベル、別に終わっていないとも言えないが

なんか違和感があったからです ”幸福になる” という権利に...

 

幸福になる権利の違和感

下地になっているのは、おそらく幸福追求権でWikipediaにはこうあります

幸福追求権(こうふくついきゅうけん)とは、日本国憲法第13条に規定される「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」のこと。

アメリカ独立宣言の掲げる「生命、自由及び幸福追求の権利」の影響が認められる。アメリカ独立宣言の文言は自然権として、世界人権宣言生存権や人身の自由の起源ともなった。

こっちだと違和感がありません

 

権利というのはWikipediaだと

権利(けんり)とは、一般に、ある行為をなし、あるいはしないことのできる資格。法律上は、一定の利益を主張または享受することをにより認められた地位、あるいは、他人に対し一定の行為・不作為を求めることができる地位をいう。日本において権利は権限を含む。対義語義務

となります 

 

違和感があるのはこの権利が存在しうるかどうかという点です

幸福とはナニか?

”幸福” とは、本人しか定義できません。第三者が幸福そうに見えると言うことはコメントできますが、他人によって状態が規定できない個人的な感情だからです

これはセクハラと同じで、その状態を規定するのは個人の価値観と趣向の問題であるため客観的に定義することが不可能です

 

他人がいくら押し付けても当人が幸福だと思わなければ幸福ではありません

幸福にしようと思って何かをすることはできますが、それによって幸福になるかどうかは誰にも保証できません

 

つまり、幸福は客観的に実現する方法がありません

幸福になる権利とは一体

仮に幸福になる権利というのが存在し、かつ、その権利を行使した場合は ”幸福” という状態に ”ならない” と ”幸福になる” ことが法律上の利益を認められなければなりません

そうでなければ権利ではないからです

よって、幸福になる権利は行使した時点から法律上では幸福にならなければなりません。が、そんなもん実現できるわけがありません

 

”幸福になる権利” と言われると、私には幸福を実現する権利のように聞こえてしまうので違和感があったのです(他にどう解釈したらいいのかワケわからんが

 

要するに、実現できるわけがないものを権利としてを実現することができるように聞こえたわけです

幸福追求権だと違和感がないのはナゼか?

法律に背かない範囲で ”幸福” を ”追求” できる権利だから矛盾の仕様がありません

幸福になろうとする権利があるだけで、幸福になるという結果を保証する権利ではありません。経緯を約束されるのと結果を約束されるのとでは致命傷レベルで意味が食い違います

 

これ解釈なのか誤解なのか微妙すぎですが言葉がおかしいのは明白です

こういう変なミスリードをする大手のメディアのモラルのなさが怖いです。そのくせ捏造記事を延々ゴリ押しするんだから気が狂っているとしか言いようがありません

 

他国の感情にはやたらと気を使いますが、自国の法律なんざしったこっちゃねーんだよという主張の一端かもしれません

こっからはオマケ:日本の固有の問題かもしれません

解釈や言い回しで本来の意味からかけ離れた内容を伝えるのが横行しすぎじゃないかと思います

まあ、こういうと憲法関連の9条とかもそうなんですが解釈で広げていくような姑息なことせずに改正をとっととやってほしいです

だって、解釈でコロコロ変わるような憲法とか、憲法自体がコロコロ変わるよりヤバいと思うんですけどどうなんですかね

ある日、突然。生存権の解釈が大幅変更されるとか恐ろしすぎるわ